どうにもならない

どうにもならない人のライフハック

誰も傷つけない正しい粗大ごみの捨て方

夫と結婚してしばらくは、1DKのアパートに二人で暮らしていた。二人とも結婚するまで一人暮らしをしていたので、家電や家具が二つずつあるという状況で、引っ越し前になるべくどちらかを処分したのだが、それでもいくつかは残ってしまった。

しかし狭い部屋なので置くところがない。本棚は重ねることができたが、ガステーブルは重ねられず、とりあえずシートで包んでアパートのベランダに置くことにした。

2か月も経つとガステーブルは錆びて完全にごみになり、このままだとベランダに錆が移りそうなので、さすがに粗大ごみに出すことになった。

区役所に申し込みをして粗大ごみシールを買い、指定された日の朝にごみ捨て場に運ぼうとしたら、たまたま会社が休みで家にいた夫が「そんなの抱えていくのは大変でしょう。そのままベランダから吊るして降ろしたらいいのに」と提案してきた。当時住んでいた部屋は2階である。

総合スーパーのインテリア売場で家具を運ぶことを生業としていた自分にとってはそんなに重い物でもないし、何より面倒だったので必要ないと言ったが、夫はどうしても自分の考えた方法を試したいと言う。夫はロケットを飛ばしたり粉塵爆発を起こしたり(←自分は手伝わなかったが結局やった)

ロケットを飛ばすために必要なたった一つのこと - どうにもならない

した時と同じ、変に輝きを帯びた目をしており、説得するのが面倒だったので任せることにした。

夫は嬉々として100円均一のプラスチックのS字フックをガステーブルに引っ掛け、それにビニール紐を結んでクレーンのようにして降ろし始めた。自分は関わりたくなかったので、部屋でコーヒー牛乳を飲みながら見守っていた。一人でやるには大変な作業だったらしく、夫が「見てないで手伝ってよ」とこちら振り向いた瞬間、S字フックが折れ、ガステーブルは地上2mから落下した。

トッププレートが歪んで五徳がはまらなくなったガステーブルをごみ捨て場に運びながら、夫は「あなたが下で受け止めてくれたら上手くいったのに」と文句を言っていた。

それをしていたら間違いなく自分の頭を直撃していたんだが、どうしてこの人には分からないんだろう。

10年続くいじめスパイラルから抜け出す方法

小学4年生の時、Tさんという女の子と同じクラスになった。

Tさんは背は小さいが活発で目立つ女の子で、身長順に並ぶ時は、同じく背の小さい自分の前に並んでいた。全く活発でなく目立たない自分は、初対面から「なんであんたが私の後ろなの」と言われ、何が気に障ったのか、それから彼女のいじめのターゲットとなった。

Tさんのいじめは独特で、なぜだかいじめの対象と、友達のように付き合う。実際、彼女は友達だと思っていたのかもしれない。放課後、遊びに誘われるようになり、遊んでいる間はTさんの言いなりにならなくてはいけなかった。

Tさんはわがままで、遊びの内容はTさんが決める。そしてTさんが止めると言うまで続く。逆らうと怒り出すので面倒な子だった。

ある日、足の速いTさんと二人きりで延々追いかけっこをさせられ、あんまり嫌になったので途中で帰った。自分も怒る時は怒るのだ。

すると翌日、Tさんは学校でクラスの女子達に「あの子、変な笑い方をするんだよ」と自分の笑い方を真似して見せた。Tさんは人を笑わせるのが上手で、女子達はそれから、自分の笑い方を馬鹿にして真似するようになった。友達のいない自分に、味方はいなかった。

Tさんに逆らうと嫌な目に遭うと分かってからは、なるべく彼女に従うようにした。Tさんの好きなジブリのアニメのアテレコ遊び(ビデオを観ながら声優と同じタイミングでセリフを言う)に延々と付き合わされた。トトロを探しに行こうと誘われ、藪の中を蚊に刺されながら暗くなるまで歩き回った。魔女になる修業をしようと言い出し、二人で箒に跨ってちょっとでも体が浮くまで「飛べ」と念じ続けた。どれもあまり楽しくなかった。

Tさんは今思えば少しおかしな女の子で、自分にだけそのおかしな面を見せていたのだと思う。自分の学校は6年生までクラス替えがなく、Tさんとの付き合いは続いた。

卒業後、Tさんは自分と同じ中学に進み、残念ながら同じクラスになった。中学生になって、Tさんのいじめは少し様相を変えた。自分のことを友達ではなく、親友だと言うようになった。

Tさんは家庭環境が複雑な子で、よく親についての悩みを打ち明けられた。

「こういうこと話せるの、あんただけだから」とTさんは言った。

ごく普通の家庭に育った自分は大したアドバイスはできなかったが、ただTさんの話を聞いていた。それが親友の役目だと思った。

Tさんに誘われるまま同じ部活に入り、登下校も一緒にするようになった。Tさんは時々わがままに振る舞うこともあったが、小学生の時のような幼稚さはなくなり、この頃には一緒にいることが苦ではなくなっていた。

だが、それはほんの短い間のことだった。

ある日、自分が家にあった『飛べ!ぼくのマンタ』という本を読んでイトマキエイがトビウオのように水面を飛ぶことに驚き、学校でその話をTさんにした。Tさんは「あんな大きなものが飛ぶはずがない」と全く信じようとしなかった。それで放課後、Tさんの家に『飛べ!ぼくのマンタ』(皮肉にもいじめられっこの少年がイトマキエイの飛ぶ姿をカリブ海まで見に行って勇気をもらうという内容だった)を持って行って写真を見せ、「本当だったでしょう」と言った。Tさんは「本当だったんだ」と言いながら暗い目で写真を見つめていた。

翌朝、Tさんは待ち合わせ場所に来なかった。そしてクラスの同じ部活の女子達が、口をきいてくれなくなった。無視されたまま部活動を終えて帰り、翌日には無視だけでなく、廊下でわざと体をぶつけられたり、聞こえるように悪口を言われるようになった。

そんなことが2週間続き、自分は学校に行けなくなり、学校に行ったふりをして(以前記事に書いたように親に言って学校を休むことができなかった)

中学時代の自分が登校拒否したいくつかの理由 - どうにもならない

公園や図書館で半日過ごして帰るようになった。担任から電話がきて、学校に行っていないことは1週間も経たずに親にばれた。理由を問い詰められ、同じ部活の人達からいじめられていると話すと、担任はすぐに対処してくれて、翌日には嫌がらせをしていた面々から謝られた。

だが、Tさんは謝らなかった。

Tさんは「あいつら最低だね」と嫌がらせをしていた子達に対して怒りをあらわにし、「私があいつらから、あんたを守るからね」と言った。

Tさんの表情に後ろめたそうなところは一切なく、Tさんの中で、自分は本当に《親友》なのだと分かった。

おそらく自分より頭がおかしいのに、それを周囲に気づかせずに相変わらず女子の中心にいるTさんが、本当に怖かった。

幸いなことに、Tさんとは中学2年生で別のクラスになることができた。学年が変わってから、自分は必死で新しい友達を作った。そうしなければTさんから逃げられないという切実な動機があった。失敗もしたが

たった一日で友達を失う方法 - どうにもならない

なんとか奇跡的に自分と同程度の頭のおかしい友達が二人ほどでき、一緒に気持ち悪い詩を書いたり、手首に針を刺し合ったりするようになった。そんな普通じゃない友達だが、Tさんのように怖くはなかったし、付き合っていて心地良かった。彼女達とはいっぱい一緒に笑うことができた。

新しい友達のおかげで、ある程度Tさんと距離を置くことはできたが、部活は同じだったので完全に付き合いは切れなかった。時々、遊びに誘われて、そのたびに緊張しながら一緒に過ごした。

高校は、Tさんがあまり勉強ができないタイプだったおかげで別のところに入れたが、それでもやっぱり、時々遊びに誘われた。全然好みでない映画に付き合わされて、同じ学校の友達の悪口や、親の愚痴を聞かされた。たまにしか会わないせいか、Tさんに対して昔ほどの恐怖は感じなかったが、それでもまだ、誘いを断ることができないでいた。

自分がTさんと完全に決別できたのは、大学生になってからだ。

Tさんは高校を出てから、関東にある看護学校に進んだ。自分はよく知らないが、有名な医大に併設された素晴らしい看護学校なのだと、わざわざ電話をかけてきて教えてくれた。Tさんは医大のテニスサークルに入り、近々サークルの医学部の先輩と付き合うことになりそうだと言った。

「その先輩、竹内さんっていうんだけど、竹だから《バンブー》ってみんなから呼ばれてるんだ

Tさんはそのあと、先輩について「BMWに乗っている」というようなことをさらに自慢をしようとしたのだが、自分は《バンブー》で大笑いしていて、ほとんど聞けなかった。Tさんは怒って電話を切った。

《バンブー》とみんなから呼ばれる男を好きになったTさんは、その瞬間から自分の中で、死ぬほどかっこ悪くて、つまらない人になった。全く怖くなくなった。

Tさんからはその後、成人してから一度だけ電話が来たが、「《バンブー》どうしてる?」と聞いたらガチャ切りされ、以来交流がない。

恋人に絶対に喜ばれる誕生日プレゼント

自分は、物凄く気持ち悪い性質をしている。自覚はある。

だが、物凄く根気がないおかげで、その気持ち悪い性質が引き起こすトラブルを、そこそこ回避して生きてこられた(と思う)。

10代の頃、当時付き合っていた人の誕生日に何をプレゼントするか、自分は考えに考えて「一羽一羽気持ちを込めて折った千羽鶴を贈ろう」と思い立った。それで、誕生日の10日前から1日のノルマを決めて、気持ちを込めながら折り始めた。

しかし、600羽ぐらい折ったところで急に面倒になってしまい、結局その人が好きな電気グルーヴのCDを買ってあげて、普通に喜ばれた。

千羽鶴のことは言わずに置いた。

しつこく絵を売りつけてくる人達を100%撃退する方法

就職して間もない頃、自分が働いていた総合スーパーの催事スペースで、ヒロ・ヤマガタラッセンの絵の展示即売会が開催された。

当時、自分は東北から出たことのない純朴な田舎のスーパーの店員であったので、それが気の弱い人に版画を売りつけるための展示会だとは知らず、休憩時間になんとなく暇だったので立ち寄ってしまった。

純朴なスーパーの店員ではあったが、絵を見ている間、ずっとスーツを着た茶髪の男が付きまとって余計な説明をしてくるし、自分がヨドバシカメラで買った2000円の腕時計を「凄いカッコいい時計っすね。お客さん、センスいいですよ!」などと褒めてくるので、大分怪しい展示会だとは感じていた。

自分があまりノリが良くないのに気づいたのか、茶髪の男は「もしかしてこういう絵、あまり好みじゃないですか?」と聞いてきた。 言われて見ればこういう絵は全く好みではなかったので「そうですね、自分はもっと暗い感じの絵が好きです」と答えた。

その瞬間、男は突然ハッとした表情をして見せ、「少々お待ちください!」とテンション高く言うと、奥に引っ込んでいった。 しばらくして、奥から《課長》と呼ばれる、オールバックでごつい指輪をしたおっさんが出てきた。

おっさんは「普段は人に見せないんですが、お客様は特別です」と言って、自分を展示場の隅にある薄暗いブースに連れ込んだ。 そこにあったのは、微妙な感じにライトアップされた、ただ単にモノトーンなだけの、 ヒロ・ヤマガタの版画だった。

それからずっと、その薄暗い場所で「ローンを組んで版画を買え」という話をされたが、自分は「別にこの絵は欲しくないですから」と言って断り続けた。 しかしおっさんは「じゃあ、あなたはどんな絵が欲しいんだ!」としつこく聞いてくる。

疲れて素になっていた自分は、思わず本音で「全裸の女が自分の赤ちゃんをバリバリ食っているような絵」と答えた。

おっさんはそれを聞いて、「あんたみたいなタイプはねえ、一生絵なんか買わないんだよ」と言って出て行った。

それから数年後、自分は結婚してスーパーを辞め、東京で働くことになった。そして上野の美術館で『我が子を食らうサトゥルヌス』という絵を見て「これこれ、こういうやつ!」と思ったのだが、それは売り物ではなかったので、結局自分は絵を買ったことがないままだ。

あの時の自分が会社を辞めなかった二つの理由

1999年、ノストラダムスが予言を外したため、自分は大学を卒業したあと、全国チェーンの総合スーパーで働くことになった。この年はなかなかの就職難で、当時よく麻雀をして遊んでいた研究室の友達の中で、就職が決まったのは自分ともう一人だけだった。

配属されたのは、東北のかなり田舎の方の店舗だった。初日の訓示で事業部の幹部社員が「今年は転換の年や。てんかんゆうても、ひっくり返る方やないで」と100%笑えない冗談を飛ばしたあたりで、ああ、凄いところで働くことになったなと思った。

自分は寝具・インテリア売場の担当になった。主な仕事は品出しと売場作りと接客で、布団を積み上げたりカーペットを積み上げたり見本の家具を組み立てたりお買い上げいただいたソファーを駐車場まで運んだりと、毎日忙しく働いた。

そうして一日12時間ほど肉体労働をしていたのだが、同時に入社した新入社員の半数が半年の間に辞めてしまい、残された社員は一日14時間ほど肉体労働をすることになった。自分はあの頃、時々血尿が出ていた。

肉体的にはつらかったが、働くことは嫌いではないので辞めようとは思わなかった。お客様から「子供が怖がって泣いた」とクレームが来るようなセンスの光る売場を作ったりと、それなりに楽しく働いていた。ただ肉体的には、本当に本当につらかった。

そんなある日、少々頭のネジが外れた大学時代の麻雀友達から、「仕事頑張ってる?」と電話があった。就職をしなかった彼女は卒業後、北関東にある専門学校に通っていたのだが、次の休みに東京に遊びに行く予定だと聞かされた。

ちょうど大売出しの準備中で、仕事中に立ったまま寝てしまうほど疲れていた自分は、「あとで金払うから、渋谷のイラン人から眠らなくても疲れない薬買って送ってくれない?」と一割くらい本気で頼んでみた。

2週間後、友達から「これしか買えなかった。ごめん」という手紙つきで偽造テレカが大量に送られてきた。なぜだかそれが妙に嬉しくて、その後、仕事は精神的にもつらくなっていったのだが、なんとか乗り越えていけた。