どうにもならない

どうにもならない人のライフハック

ホラー漫画と推理小説しか読んだことのなかった小学生が詩と短歌に目覚めた理由

小学5年生の時のこと。

自分のクラスの学級新聞には、順番で“取材記者”を担当させ、取材記事を書かせるコーナーがあった。 近所の八百屋や本屋など、記者が自分達で決めた取材先に出掛け、「一日に何円くらい売れますか」とか「一番大変なことは何ですか」とか質問して、答えてもらったことをまとめて記事を書くのである。

取材記者は大体が二人一組で、友達同士でやることが多かった。自分の番になった時は、数少ない友達の一人だったKさんとペアを組んだ。 Kさんは普通の女子でありながら、なぜか猟奇的なものが好きという点で自分と趣味が合い、親に隠れて『ギニーピッグ』などの残酷ビデオを借りてきて一緒に観ては、「これ絶対本物だよ!」と言い合っていた。

 

マンホールの中の人魚 ~ザ・ギニーピッグ [VHS]

マンホールの中の人魚 ~ザ・ギニーピッグ [VHS]

 

 

お互い、ちょっと足りない子供だったのだと思う。

そんな自分達が選んだ取材先は、精神病院だった。Kさんのお母さんがたまたま精神病院で働いており、そのコネを使って取材を了承してもらったのだ。

取材の日、自分とKさんは院長室に通され、院長先生に「どういう患者さんがいますか」とか「どうやって治すんですか」という小学生らしい質問をしたあと、院内を見学させて貰うことになった。廊下に出た時、Kさんの顔は完全にワクワクしていた。多分自分も同じ顔をしていたと思う。

病院の廊下を歩いている人達は穏やかな表情の人が多く、自分やKさんが期待していたような暴れん坊はいなかった。

一人だけ印象に残っているのは、スイッチの入っていないラジオを肩に乗せて無表情で廊下を行ったり来たりしていたおじさんだが、そのラジオで電波を受信していたのか、無口なラッパーだったのか、いまだ分からない。

一通り院内を見せてもらったあと、自分達は再び院長室に戻り、院長先生の話を聞くことになった。院長先生は、取材に来てくれたお礼だと言って、患者さんが自分達で作っているのだという文集をくれた。文集は主に詩と短歌をまとめたもので、エッセイのようなものもあった。

取材のあと、Kさんはその文集を「読んでもよく分からなかった」と最初の部分しか読まなかったようだが、自分は最初から最後まで一気に読んだ。そして特に気に入ったものを自分のノートに書き写していた。

どうしてか自分には、その患者さん達の詩や短歌が、痺れるように《分かってしまった》のである。

このことはKさんにも言いたくなくて、取材記事は院長先生への質問をまとめた当たり障りのないものを二人で書いた。本心ではそこに患者さんの詩を載せたかったが、自分が心から凄いと思ったものを広く知られるのが嫌というダメな人特有の心理が働いて、出来なかった。

その文集に触れて以来、自分は患者さんの詩や短歌を真似た創作をするようになった。そして中学に上がって文芸創作クラブに入ってからは、それらの詩や短歌に思春期がブレンドされて、ますます尖ったものを書くようになった。

何かの折にクラブで作った文集を読んでしまったらしい父は、自分が初めて独り暮らしをする時、「ちゃんと掃除しなさい」とか「ちゃんとご飯を食べなさい」ではなく、「ちょっとでも(頭が)おかしくなったら、一人で悩まないで相談しなさい。そういう病気は全然恥ずかしいことじゃないからな」と真剣にアドバイスしてくれた。

大人になってそういう病気を身近に経験した今、あれは本当にありがたい言葉だったな、と思っている。

どうにかなりたい人に伝えたいいくつかのこと

「どうにもならない」というタイトルで始めたこのブログだが、自分はどうにもならない人間なりに、「どうにかなりたい」と思って生きてきた。

大学生になって一人暮らしを始めた途端、部屋がリアルにゴミ屋敷となり、破けた網戸から入り込んだ野良猫が本棚で子猫を生んだ時。

学校に行かなくても誰にも怒られないのをいいことに、講義をさぼって朝から晩までゲームをしてはその合間にレンタルビデオ屋で借りたホラー映画を観まくって過ごし、卒論の時期になってやっと久々に大学の研究室を訪ねたら教授から「君って卒業するの?」と驚かれた時。

運良くギャグ漫画でデビューできたもののアンケートの結果が最下位で雑誌を首になり、夜は再デビューを目指して新しいネームを描きながら、昼は工場のラインでコーヒーシュガーの向きと数を揃えるアルバイトをしていて、隣のフィリピン人のお姉さんに「フィリピンの葬式はすっごい派手よー」と唐突に話しかけられてコーヒーシュガーの向きを揃え損ねた時。

「このままではだめになる」、「どうにかしないといけない」と強く思った。

そして現在、自分はゴミ屋敷じゃない程度には片づいた家で暮らし、留年することなく大学を卒業して就職した上に結婚して子供まで作り、さらに漫画原作者として十年以上仕事を続けてこれている。

それでも、人様と比べると多くの部分がどうにもならないのだが、今もどうにかなりたいと思い続けているし、そう思って行動して、どうにかできたこともある。

この新しく作った「どうにかなりたい」というカテゴリーでは、自分と同じ「どうにもならない」人間だけど「どうにかなりたい」と思っている読者の方に、「面倒だけど、ちょっとどうにかなるために行動してみよう」という後押しができるような記事を書けたらと思っている。

多少自分語りがうざいカテゴリーになるかとは思いますが、なるべく楽しく読んでいただけるよう努力はしますので、どうかよろしくお付き合いください。

団結した仲良しクラスの中ですら落ちこぼれるために必要なたった一つのこと

自分が高校3年生の時のクラスは団結力があり、球技大会や文化祭でみんなで盛り上がるような素敵なクラスだった。いじめや仲間外れもなく、自分のような者でも明るい高校生活を送ることができた。お弁当を食べるグループにも入れてもらえて、学校帰りに友達とカラオケに行ったりと、まるで普通の高校生になれたようで嬉しかった。

文化祭が終わって数日経った頃、クラスの人気者の男子が「打ち上げしようぜ」と言い出して、クラス全員参加でみんなでボーリングをしに行くことになった。自分はボーリングをするのはその時が初めてだった。

人気者の男子が仕切ってくれて、クラスをいくつかのチームに分けて対抗戦をすることになった。ボーリングをしたことがないと正直に話すと、同じチームの男子が投げ方を教えてくれた。その通りに投げたつもりだったが、1投目も2投目もガーター(という言葉をこの時初めて知った)だった。

同じチームの女子達が明るく「ドンマイ!」と言ってくれて、「ごめんごめん」と苦笑いしながら席に戻る。しばらくしてまた投げる順番が回ってきて、今度こそ真っ直ぐに投げたつもりだったが、3投目と4投目もガーターだった。女子達の「ドンマイ」の声のトーンが少し落ちた気がした。

自分は結局、この時に20連続ガーターという奇跡のスコアを叩き出した。7投目あたりからは投げ終わったあと、どんな顔で振り返ってチームのみんなの方に戻ればいいのか分からなかった。9投目を投げる頃には、チームのみんなが自分が投げる時だけ無言になっていた。うちのチームはぶっちぎりの最下位だった。

ボーリングのあと、みんなで焼肉屋に行ったが、何を食べても味がしなかった。その後、親に教えてもらって近所のボーリング場で練習してたまにガーター以外を取ることもできるようになったが、あれ以来クラスメイトからボーリングに誘われることのないまま、卒業の日を迎えた。

秋田犬を飼う人がしてはいけないたった一つのこと

子供の頃、飼っていた犬が自動車にはねられる瞬間を 見てしまったことがある。

実家で飼っていたのは秋田犬という種類の大型犬で力が強く、 自分が散歩をさせていた時、うっかり引き綱を離してしまった。 犬は結構なバカ犬だったので呼んでも全く戻って来ず、 それどころか車がガンガン走っている6車線の道路を ダッシュで渡って逃げようとした。 そして5車線目で乗用車にはねられ、7メートル飛んだ。

飛んだ後、犬は車道をゴロゴロと転がり、そしてなぜか 普通に起き上がり、またダッシュで逃げて行った。 急いで家に帰って父に報告すると、 「犬は死ぬ時は姿を隠すもんだ。多分もう助からないんだろう」 と、悲しいことを言われた。

それから、家族総出で懐中電灯を片手に犬の死体を探した。 しかしなかなか見つからない。 母が「あんた達は先に帰って夕飯食べてなさい」と涙目で 言うので、自分は妹達を連れて泣きながら家に帰った。

家に着き、玄関の鍵を開けようとしたその時、 妙にスッキリしたような顔をしたうちの犬が、 元気にこちらに向かって走ってきた。前足に擦り傷が出来ていたが、 普通に走っている。尻尾まで振っている。

とりあえず犬を小屋に繋ぎ、父の所へ行って犬が戻って来たことを話すと、 「いや、きっと内臓はグチャグチャだ」 と、また悲しいことを言われた。

「犬が車にはねられたので診て欲しい」と電話し、急いで 動物病院に向かった。病院に向かう途中も、犬は普通だった。 そして病院に着いた時、医者は犬を見て鼻で笑い、 「秋田犬はねえ、車にはねられたくらいじゃ骨も折れませんよ」と言った。

一応レントゲンも撮ったが、擦り傷以外全く怪我は無かった。 そして犬は何事も無かったように普通に夕飯を食い、その後12年生きた。

誰も傷つけない正しい粗大ごみの捨て方

夫と結婚してしばらくは、1DKのアパートに二人で暮らしていた。二人とも結婚するまで一人暮らしをしていたので、家電や家具が二つずつあるという状況で、引っ越し前になるべくどちらかを処分したのだが、それでもいくつかは残ってしまった。

しかし狭い部屋なので置くところがない。本棚は重ねることができたが、ガステーブルは重ねられず、とりあえずシートで包んでアパートのベランダに置くことにした。

2か月も経つとガステーブルは錆びて完全にごみになり、このままだとベランダに錆が移りそうなので、さすがに粗大ごみに出すことになった。

区役所に申し込みをして粗大ごみシールを買い、指定された日の朝にごみ捨て場に運ぼうとしたら、たまたま会社が休みで家にいた夫が「そんなの抱えていくのは大変でしょう。そのままベランダから吊るして降ろしたらいいのに」と提案してきた。当時住んでいた部屋は2階である。

総合スーパーのインテリア売場で家具を運ぶことを生業としていた自分にとってはそんなに重い物でもないし、何より面倒だったので必要ないと言ったが、夫はどうしても自分の考えた方法を試したいと言う。夫はロケットを飛ばしたり粉塵爆発を起こしたり(←自分は手伝わなかったが結局やった)

ロケットを飛ばすために必要なたった一つのこと - どうにもならない

した時と同じ、変に輝きを帯びた目をしており、説得するのが面倒だったので任せることにした。

夫は嬉々として100円均一のプラスチックのS字フックをガステーブルに引っ掛け、それにビニール紐を結んでクレーンのようにして降ろし始めた。自分は関わりたくなかったので、部屋でコーヒー牛乳を飲みながら見守っていた。一人でやるには大変な作業だったらしく、夫が「見てないで手伝ってよ」とこちら振り向いた瞬間、S字フックが折れ、ガステーブルは地上2mから落下した。

トッププレートが歪んで五徳がはまらなくなったガステーブルをごみ捨て場に運びながら、夫は「あなたが下で受け止めてくれたら上手くいったのに」と文句を言っていた。

それをしていたら間違いなく自分の頭を直撃していたんだが、どうしてこの人には分からないんだろう。