どうにもならない

どうにもならない人のライフハック

あの時の自分が会社を辞めなかった二つの理由

1999年、ノストラダムスが予言を外したため、自分は大学を卒業したあと、全国チェーンの総合スーパーで働くことになった。この年はなかなかの就職難で、当時よく麻雀をして遊んでいた研究室の友達の中で、就職が決まったのは自分ともう一人だけだった。

配属されたのは、東北のかなり田舎の方の店舗だった。初日の訓示で事業部の幹部社員が「今年は転換の年や。てんかんゆうても、ひっくり返る方やないで」と100%笑えない冗談を飛ばしたあたりで、ああ、凄いところで働くことになったなと思った。

自分は寝具・インテリア売場の担当になった。主な仕事は品出しと売場作りと接客で、布団を積み上げたりカーペットを積み上げたり見本の家具を組み立てたりお買い上げいただいたソファーを駐車場まで運んだりと、毎日忙しく働いた。

そうして一日12時間ほど肉体労働をしていたのだが、同時に入社した新入社員の半数が半年の間に辞めてしまい、残された社員は一日14時間ほど肉体労働をすることになった。自分はあの頃、時々血尿が出ていた。

肉体的にはつらかったが、働くことは嫌いではないので辞めようとは思わなかった。お客様から「子供が怖がって泣いた」とクレームが来るようなセンスの光る売場を作ったりと、それなりに楽しく働いていた。ただ肉体的には、本当に本当につらかった。

そんなある日、少々頭のネジが外れた大学時代の麻雀友達から、「仕事頑張ってる?」と電話があった。就職をしなかった彼女は卒業後、北関東にある専門学校に通っていたのだが、次の休みに東京に遊びに行く予定だと聞かされた。

ちょうど大売出しの準備中で、仕事中に立ったまま寝てしまうほど疲れていた自分は、「あとで金払うから、渋谷のイラン人から眠らなくても疲れない薬買って送ってくれない?」と一割くらい本気で頼んでみた。

2週間後、友達から「これしか買えなかった。ごめん」という手紙つきで偽造テレカが大量に送られてきた。なぜだかそれが妙に嬉しくて、その後、仕事は精神的にもつらくなっていったのだが、なんとか乗り越えていけた。

別れ話の途中でしてはいけないたった一つのこと

ある時、大きな池のある公園で、自分は当時付き合っていた人に別れ話を切り出されていた。まだ付き合い始めて二か月も経っていない相手で、自分は別れたくなくて、何とか説得しようとしていた。

悪いところは全部直す。もう電話に出るまで何十回も携帯を鳴らし続けたりしない。明け方に包丁を持って部屋に行ったりしないし、借りたお金も返すから。

どんなにこれまでのことを謝っても、相手の態度は頑なだった。ちなみにこの頃、自分は思春期の小太りをこじらせて体重が70kg近くあったので、もしかしたらその容姿も別れたい原因に含まれていたのかもしれない。

だが自分は持ち前の粘着さを発揮して、じゃあ友達としてでもいいから、今までのように部屋で朝から晩まで『ボクと魔王』(PS2RPGだが自分はPSしか持っていなかった)をやらせて欲しいと頼み込んだ。

そうして自分が頭を下げている間、池の方からバッシャンバッシャンと何か大きなものが暴れているような音が、ずっとしていた。

大事な話の最中だが、どうしても気になって見に行くと、池の周りにある杭と杭の数センチほどの隙間に、すっぽりと首が挟まってしまっている白鳥がいた。

暴れるのを押さえつけながら首を外して助けてやったが、何となく話の続きをする雰囲気ではなくなり、そのまま恋人には逃げられた。別れ話の途中に白鳥を助けると、ろくなことにならない。

ロケットを飛ばすために必要なたった一つのこと

大学1年生の頃のこと。 ある晴れた秋の日、当時付き合い始めたばかりだったサークルの先輩のAさんが、 「ロケットを飛ばしに行こう」と誘いに来た。

Aさんは、こういう突拍子もない言動で周りの普通の人に迷惑を掛けるタイプで、自分に輪をかけて頭のおかしい人だった。

サークルの新入生歓迎コンパで、Aさんは胸ポケットにごく自然な様子でバナナを1本刺していて、それは何のために入れているんですかと聞いたら「たまに急にお腹が空くから」と真顔で答えた。コンパの帰り道、大して酔っているふうでもなかったAさんは突然「これ、登れる気がする」と言い残して狂った猿のような動きで道端の電柱に登って行き、サークルの女子達に悲鳴を上げさせていた。

後輩として知り合った自分は「この人は放って置いたらとんでもないことになる」という気持ちからなんとなくそばにいるようになり、そのうち付き合うことになった。しかし、Aさんの奇行は並大抵ではなくて、正直、この時にはもう疲れてしまっていた。

やる気なく「ロケットって何ですか」と尋ねると、Aさんは持っていた空のペットボトルを見せてきた。それに水とドライアイスを入れ、口をゴム栓で塞いで逆さまにして置くと、ロケットのように飛ぶはずだというのである。 その遊びは本か何かで読んだのかと聞くと、Aさんは「自分で考えついたんだよ」と得意そうに答えた。

そんな安全かどうか分からない遊びをさせる訳にはいかない。 当然自分は止めたのだが、Aさんは言うことを聞かず、結局押し切られて大学のグラウンドでロケットを飛ばすことになった。

近くに誰も居ないのを確かめ、ペットボトルを逆さまに設置して物陰にしゃがんで二人で見守った。結構長い時間のあと、「ボン」という音を立て、ペットボトルのロケットは、信じられないくらい高く飛んだ。

その日は本当に天気が良くて、青空に透明のペットボトルが光りながら飛んでいく光景は、なかなかに感動的だった。そして、これまでAさんの奇行を頭ごなしに否定していたことを少し反省した。

しかしその2日後、Aさんが粉塵爆発を起こしてみたいから小麦粉撒くの手伝って」と誘いに来たので、やっぱり甘い考えは捨てることにした。

Aさんとは色々あって、その6年後に結婚した。

たった一日で友達を失う方法

自分には本当に友達がいなかった。

大人になった今なら、自分に友達がいなかった理由は分かる。

お洒落やアイドル、少女漫画など同年代の女子が興味を持つことに全く関心がなく、共通の話題がなかった。

小太りで制服のブレザーにはデブ特有の皺が寄っており、スカートの丈は校則通り膝下3センチ。生まれつきの不器用で髪を結うのが病的に下手で、二つに結った髪の分け目はいつもぐちゃぐちゃだった。

歌番組を観る習慣がなく、唯一はまった音楽は「たま」と「ザ・ブルーハーツ」と自分が生まれる前に流行ったフォークソングのみ。

漫画は大好きだったが、近所の女の子達の「ときめきトゥナイトごっこ」で毎回アロン役ばかりやらされて魔界に帰れと砂をかけられたり(冬は雪玉をぶつけられたり)したことで苦手意識を抱くようになり、女の子が読むような漫画は一切読まなくなった。父が買っていた『週刊少年ジャンプ』と、『クローズ』や『カメレオン』、『今日から俺は』といったヤンキー漫画。『柔道部物語』、『帯をギュッとね!』を始めとする柔道漫画など、男子向けの漫画ばかりを好んで読んでいた。

そうした趣味関心のこと以前に、自分は普通の人と比べて、少し頭がおかしかった。それを自覚している今は、無理して友達を作らないようにしている。間違いなく相手に迷惑をかけるからだ。

だが当時の自分はどうして友達ができないのかが分からず、苦しんでいた。友達が欲しくて仕方なかった。休み時間に机に突っ伏して誰かが「何してるの?」と聞いてくれるのを待っていた。「机に突っ伏して腕に目を強く押しつけるとまぶたの裏に星雲みたいなものが見えるんだけどこれは人間の脳に宇宙を漂っていた時の魂の記憶があるからだと思う」と教えてあげるつもりだった。話しかけてくる子が誰もいなくて本当に良かった。

そんな近寄りがたい女子中学生だった自分に、ある日、声をかけてくれた女の子がいた。

Mさんという転校生で、「たま」が好きな子だった。

休み時間に小声で「らんちう」を口ずさんでは「たま」が好きであることを周囲にアピールしていた自分は、Mさんに「私も「たま」好きだよ」と声をかけられて舞い上がった。自分が好きなものを、好きだと言ってくれる同級生の存在は、当時の自分にとって本当に救いだった。

Mさんは音楽そのものだけでなく、「たま」のグループのメンバーのイラストを描いたりするのが好きだったようだ。自分の好きな知久さんを可愛く描いてくれたり、「たま」のファンの人が描いたというメンバーを登場人物とした創作漫画を読ませてくれたりした。

Mさんは都会から転校してきたので、そういうものを手に入れる機会があったのだと思う。同人誌というものの存在すら知らなかった自分は、こうして自分とは違う方向から「たま」を好きでいる人達がいるのだと素直に感心した。Mさんと、もっと仲良くなりたいと思った。

それから数日後、校門を出たところで、たまたま下校途中のMさんを見かけた。Mさんの家は自分とは反対方向で、一緒に帰ったことはなかった。

Mさんとの距離は20メートルほどで、自分は「よし、Mさんを尾行しよう」と決めた。20メートルは尾行に最適な距離だと、家にあった『名探偵入門』(確かそんなタイトルだった)という本に書いていたからだ。

尾行してMさんの家を突き止めることで、Mさんと仲良くなれると思ったのではない。自分はそこまで頭のおかしい人間ではない。理由は特になかった。ただ、あの時はどうしてもMさんを尾行してみたくなったのだ。

猫背で小太りのMさんが、時々通学バッグを右の肩から左の肩にかけ替えたりしながらトコトコ歩いていく後ろを、20メートルの距離を保ってついていった。Mさんが小さな白いアパートの2階に上がり、ドアを閉めるところまで見届けて帰った。物凄く楽しかった。

翌日、自分はMさんに「Mさんの家、○○の通りの白いアパートだよね」と興奮気味に話しかけた。「なんで知ってるの」と低いトーンで尋ねたMさんに「昨日、学校の帰りに尾行したんだ」と得意げに告げた。

それからMさんは自分に話しかけてくれなくなった。こちらから「たま」の話をしようとしても、避けられるようになった。

Mさんに距離を置かれるようになってからも、自分は数回、Mさんを尾行した。それで友達に戻れると思ったのではない。ただ、そうせずにいられなかった。20メートルの距離を保ってMさんの後ろ姿を追っていき、ある日、振り返ったMさんが泣きそうな顔をしているのを見たのをきっかけに尾行はやめた。

あれ以来、他人を尾行することはなくなった。だが今でもたまに、髪の毛を緑と黄緑と黄色に染め分けたおばさんや、新聞紙で作ったヘッドギアを被ったおじさんを街で見かけると、尾行したくなる。もちろん友達になりたいわけではないのだが。

はじめに

2004年9月から、はてなダイアリーでブログを書き続けている。

自分は漫画原作者をしているのだが、ブログを始めた当初より少しずつ仕事が増え、ごくたまに読者の方からコメントをもらったりするようになった。

また、ブログを書くうちに一人だった子供が三人に増え、記事の内容は子育てに関するものが多くなってきた。その過程で自分の親と夫の親がブログを発見し、孫の成長を楽しみに読むようになった。

こうなると数少ない読者の人に嫌われたくないし、自分の親を悲しませたくないので変なことは書けない。何より夫の親に頭がおかしい嫁だと思われたくなくて、当たり障りのない記事ばかりを書くようになった。

漫画原作者の公式ブログとしてはむしろそれで良いと思うのだが、書いている自分は少し楽しくない。おそらく読む人も(孫の成長を楽しんでいる面々は別として)それほど楽しくないのではないかと思う。

それで新しくこのブログを始めることにした。『どうにもならない』というタイトルの由来については、これから書く記事を読んでもらえれば「ああ、これはどうにもならないな」と分かってもらえると思うので書かない。

こちらは公式ブログとは異なり、「(どうにもならない自分が)楽しく書く」ことと「(自分と同じくどうにもならない一部の方に)楽しく読んでもらう」ことを目的としたブログである。

偶然これを発見してしまった身内の皆さんやリアルな友達、知り合いの方は見て見ぬ振りをしてください。