どうにもならない

どうにもならない人のライフハック

マリッジブルーを乗り越えるためのたった一つの方法

自分が「この人と結婚しても幸せにはなれない」と思っていた人と、結婚するに至った経緯を書いておきたい。

夫のAさんと籍を入れたのは、2001年の12月のことだ。その年の春に、お互いの両親に結婚したい人がいると伝え、5月に自分はAさんの両親に挨拶を済ませた。当時、自分は福島の総合スーパーで働いており、Aさんの実家は中国地方だったので、その中間のAさんが働いている横浜に集まる形で顔合わせをした。

その後、自分は7月にスーパーを辞め、式を挙げるまでの間、横浜のAさんのアパートで同棲することにした。青森の両親は「実家から嫁に行くのが筋ではないか」と、良い顔をしなかったが、若かった自分は早くAさんと暮らしたかったし、Aさんは早く自分に横浜で仕事を探して欲しいと言っていた。なので自分はあまり考えもせず、福島から横浜に引っ越したのだった。

そうして始まった横浜でのAさんとの暮らしは、思っていたほど楽しいものではなかった。

まず、Aさんとは決定的にインテリアのセンスが合わなかったし、

http://ieyagi.hatenablog.jp/entry/2015/12/03/214340
Aさんは結婚のために退職して仕事をしていない自分を、全く悪気のない調子で「ごくつぶし」と呼んだ。

Aさんはインテリアだけでなく、言葉選びの点でも自分とは感覚が異なっているようで、自分が作った料理を「生臭い」と評したり、「君と同じ布団で寝ると埃っぽくて気分が悪くなる」ということを平気で言った。自分はAさんが、たらこクリームスパゲッティをその時初めて食べたということも、ハウスダストアレルギーであることも知らなかったので、婚約者から浴びせられる無神経な言葉にとても傷ついた。

Aさんは「ごくつぶし」という言葉を、自分が嫌がるとも思わなかったらしい。Aさんは何でも思ったことを、ただ率直に口にする人だった。

さらにAさんとは、お金の使い方という点で、完全に反りが合わなかった。

会社で同期だった友達と(もちろん自分の貯金で)旅行に出かけてお土産を買ってくると、「収入もないのに無駄なもの買わないで」と、喜ぶどころか不機嫌になった。たまに外食に(もちろん会計は割り勘で)行くと、「ライスを一人分ずつ頼むともったいないから、大盛りを頼んで二人で分けよう」と提案してきた。それは恥ずかしいと自分が嫌がると、「どうして君の見栄のために無駄なお金を使わなきゃいけないの」と不機嫌になった。

Aさんの実家は長年商売をしていて、そのためか、Aさんはかなりシビアな金銭感覚を身につけていた。対して自分は、共働きの公務員の両親の元に生まれ、普段の生活ではそれほど贅沢はしなかったが、スキーやキャンプや登山など、《レジャーにはお金をかけて楽しむ》という方針の家庭で育った。

Aさんとは大学時代、遊んでいても、話していても、楽しかった。漫画や音楽など、好きなものが似ていたし、Aさんの普通とちょっと違う感覚も、面白いと思えて好きだった。

しかし同じ家に住んで一緒に生活を始めると、Aさんは楽しいというより、苦痛な人になった。自分も決して言われっぱなしでいる人間ではないので、Aさんに「文句があるなら食べなきゃいいじゃん」とか「じゃあマスクして寝れば」とか「本当にケチ臭い人だね」というような刺のある言葉を散々浴びせた。

そんな生活が続いた二か月後、以前からの約束で、自分の両親とAさんが顔合わせをする日がやってきた。その頃にはAさんと自分は、婚約中でありながら、お互い顔も見たくないほど険悪な状態になっていた。

自分はすでに、Aさんと結婚しても幸せにはなれないだろうと確信していた。だが、婚約を破棄するほどの勇気はなかった。仕事を辞めてしまっていたし、式場も予約してあったから、もう仕方がないのだと思っていた(結婚したあとに聞いたが、当時、Aさんもほとんど自分と同じ心境だったそうだ)

自分の実家の青森へは、昼に横浜を出て、自分が運転する車で向かった。スーパーの社員時代に買った中古車にカーナビはついていなくて、慣れない首都高速で何度も道を間違えた。そのたびにペーパードライバーのAさんに横から文句を言われ、それに対して「運転しないくせにうるさい」と言い返し、いつも以上に自分達は険悪になっていった。

この時の青森への帰省は、自分にとってはちょっとした旅行のつもりで、当初はどこかの旅館に一泊しようと提案していた。しかしAさんは「車で寝ればいいじゃん」と主張し、「青森まで一人で運転するのに、それじゃ疲れが取れない」と自分が反対し、結果、《どこか安いラブホテルに一泊する》という折衷案に落ち着いた。

自分が何度も道を間違えたせいで、本当なら仙台辺りで一泊するはずが、福島の山の中にぽつんと建っていた、えらく年季の入ったラブホテルに泊まることになった。相変わらず険悪な雰囲気のまま、途中のコンビニで買った弁当を食べて、風呂に入ってもう寝ようというところで、Aさんが「テレビが映らない」と面倒なことを言い出した。

その部屋のテレビはコインを入れて見るタイプのもので、Aさんは確かに100円を入れたのだが、ちゃんとコンセントは刺さっていてランプもついているのに、テレビが映らないのだ。

「もう遅いし、100円くらい諦めたらいいじゃん」と言ってみたが、金にシビアなAさんは納得するはずもなく、フロントに電話をかけた。たった100円のことでわざわざフロントの人を呼ぶAさんのことが恥ずかしくて、自分はどんな顔をしていれば良いか分からず、ベッドに腰かけて下を向いていた。

呼ばれて部屋にやってきたのは、朗らかでとても人の良さそうなおばちゃんだった。謝りながら入ってきたおばちゃんは、「あれ、何で点かないんだろうねえ」と、テレビの裏側の配線やコインを入れる箱を、あれこれいじり始めた。

おそらく、原因は機械の故障で、おばちゃんには仕組みなど分からないのだろうが、それでもコンセントを抜いてもう一度刺してみたりと、おばちゃんは一生懸命、テレビが映るように直そうとしてくれた。ホテルの部屋は薄暗いので、Aさんはおばちゃんが見やすいようにテレビの向きを変えたりと、おばちゃんを手伝っていた。

結局、何をしてもテレビは映らなかった。

「ごめんねえ。申し訳ないね」と、おばちゃんはコインを入れる箱を開けて、Aさんにお金を返した。Aさんは「いえいえ、いいんです。ありがとうございました」と笑顔で頭を下げた。

一生懸命テレビを直そうとしているおばちゃんと、おばちゃんを手伝ってあげているAさんを、自分はただベッドに腰かけて見ていた。それまでAさんに対して腹を立てていたこともあって、ふてくされた態度をやめるきっかけを逃していたのだ。

だが、そうして笑顔でおばちゃんに接しているAさんの姿を見て、自分はAさんが本質的には優しい人なのだ、ということを思い出していた。

ただいつも、思ったことをそのまま口にしてしまうだけで、悪気はないのだ。お金のことだって、浪費家の自分には、倹約家のAさんがいてくれた方が助かるのかもしれない。

そんなことをぐるぐる考えていた自分に、帰り際、おばちゃんがニコニコしながら、「じゃあ、仲良くねえ」と、温かい福島の訛りで声をかけてくれた。その不意の言葉が、何だかとても心に響いて、自分は素直に「そうだ。仲良くしよう」と思えた。

数か月後、自分は無事にAさんと結婚した。

Aさんは相変わらず、思ったことをそのまま口にして何度も自分を怒らせたが、その都度「そういう言い方は傷つく」とブチ切れながら伝えることで、次第に言葉を選んでくれるようになった。

お金についての姿勢も、シビアであることに変わりはないが、おかげで生活に困ることはないし、三人の子供達にそれぞれ習い事をさせることができたりと、ありがたい面もある。

お互い、折れるところは折れて、自分は多少倹約するようになったし、ちゃんと仕事をして稼ぐようになった。Aさんも、レジャーや外食の時などは、お金のことをあまり言わなくなった。

そして今年、ついに結婚15年目を迎え、昨日、第一子である長男が12歳になった。

誕生日のお祝いの時、息子がまだ赤ちゃんの頃のビデオをみんなで観ながら、昔のことをあれこれ思い返していて、ふと、あのラブホテルのおばちゃんのことを思い出した。

あのおばちゃんの一言がなかったら、自分はAさんと《仲良く》してこれただろうか。

ずっと意地を張って、歩み寄れないままだったかもしれない。

子供達が寝たあと、Aさんに、あの時のおばちゃんのことを覚えているか、と聞いてみた。

「覚えてるよ。あのおばちゃん、お詫びだからって100円しか入れてないのに300円も返してくれたんだ。本当にいい人だったよね」

Aさんは、懐かしそうにそう答えた。

そんなやり取りがあったことを15年間知りませんでした。

おばちゃん、あの時は色々ありがとう。おかげで今、幸せです。多分。

インテリアのセンスが全く合わない夫と一緒に暮らす方法

 

「ものを飾る」という点について、夫とセンスが合わない。

最初にそれに気づいたのは結婚する前、夫のAさんが大学のサークルの先輩だった頃だ。

ある時、サークルで七夕会をすることになり、手先の器用なAさんが七夕の飾りを担当することになった。

七夕会の前日、Aさんから突然電話があり、「飾りに使うから肌色の折り紙をたくさん買ってきて欲しい」と頼まれた。

何で肌色なのか、と思ったが、一応先輩の命令なので素直に買いに走り、Aさんのアパートに持って行ったところ、Aさんは肌色の折り紙で「やっこさん」を作り、それに色とりどりの折り紙で作ったまわし》を付けた「おすもうさん」を大量に笹にぶら下げていた。

そんなAさんと結婚したせいで、ひなまつりにはしばらくの間、こういう雛人形が飾られ続けた(娘達が生まれてからは、夫の母が木目込み人形の立派な雛人形を作ってくれたので、悲しい思いをすることはなくなった)

自分が何かを飾りたいと思っても、せっかく部屋を片づけて作ったディスプレイ用のスペースにはAさんの作ったよく分からないロボットのプラモデルや変な生き物のフィギュア、空手家の恰好をしたゴム人形などが飾られていて、自分が漫画原作の仕事をするにあたっての神棚の御神体な存在である藤子F不二雄先生のメダルを一緒に飾る気にはなれない。

(現在は仕事机のパソコンの横に飾られている)

そこで数年前から、家のインテリアについて、完全な棲み分けをすることにした。

夫のためにプラモデルなどを飾れる棚をホームセンターで材料を買ってきて作り、自分の仕事部屋である2階のリビング、玄関、2階のトイレに関しては、夫は手を出さないと約束させたのだ。

1階のトイレの方は夫に譲ったので緑色のキューピーの頭を被ったアマガエルのフィギュアやリアルなヤドカリやシャコのフィギュア、スコープドッグのプラモデルなど雑多なものが飾られ、非常にカオスな状態だが、とにかく来客があった時に恥ずかしい思いをすることはなくなった。

だが、夫は時々約束を破り、自分が玄関にアンリ・ルソーの『異国風景』

アンリ・ルソー-異国風景 − 原始林の猿-

という絵を飾っているのを、お気に入りのジグソーパズルのパネルに入れ替えたりする。自分が家を空けて友達と飲みに行ったりした時に入れ替わっていることが多いので、それは何かの抗議なのかもしれない。

気づくたびに元に戻していたが、3日前の夜、また絵がジグソーパズルに入れ替わっていた。自分はすぐに気づいたが、今も戻していない。

夫のお気に入りのジグソーパズルというのが、これだからだ。

ホラー漫画と推理小説しか読んだことのなかった小学生が詩と短歌に目覚めた理由

小学5年生の時のこと。

自分のクラスの学級新聞には、順番で“取材記者”を担当させ、取材記事を書かせるコーナーがあった。 近所の八百屋や本屋など、記者が自分達で決めた取材先に出掛け、「一日に何円くらい売れますか」とか「一番大変なことは何ですか」とか質問して、答えてもらったことをまとめて記事を書くのである。

取材記者は大体が二人一組で、友達同士でやることが多かった。自分の番になった時は、数少ない友達の一人だったKさんとペアを組んだ。 Kさんは普通の女子でありながら、なぜか猟奇的なものが好きという点で自分と趣味が合い、親に隠れて『ギニーピッグ』などの残酷ビデオを借りてきて一緒に観ては、「これ絶対本物だよ!」と言い合っていた。

 

マンホールの中の人魚 ~ザ・ギニーピッグ [VHS]

マンホールの中の人魚 ~ザ・ギニーピッグ [VHS]

 

 

お互い、ちょっと足りない子供だったのだと思う。

そんな自分達が選んだ取材先は、精神病院だった。Kさんのお母さんがたまたま精神病院で働いており、そのコネを使って取材を了承してもらったのだ。

取材の日、自分とKさんは院長室に通され、院長先生に「どういう患者さんがいますか」とか「どうやって治すんですか」という小学生らしい質問をしたあと、院内を見学させて貰うことになった。廊下に出た時、Kさんの顔は完全にワクワクしていた。多分自分も同じ顔をしていたと思う。

病院の廊下を歩いている人達は穏やかな表情の人が多く、自分やKさんが期待していたような暴れん坊はいなかった。

一人だけ印象に残っているのは、スイッチの入っていないラジオを肩に乗せて無表情で廊下を行ったり来たりしていたおじさんだが、そのラジオで電波を受信していたのか、無口なラッパーだったのか、いまだ分からない。

一通り院内を見せてもらったあと、自分達は再び院長室に戻り、院長先生の話を聞くことになった。院長先生は、取材に来てくれたお礼だと言って、患者さんが自分達で作っているのだという文集をくれた。文集は主に詩と短歌をまとめたもので、エッセイのようなものもあった。

取材のあと、Kさんはその文集を「読んでもよく分からなかった」と最初の部分しか読まなかったようだが、自分は最初から最後まで一気に読んだ。そして特に気に入ったものを自分のノートに書き写していた。

どうしてか自分には、その患者さん達の詩や短歌が、痺れるように《分かってしまった》のである。

このことはKさんにも言いたくなくて、取材記事は院長先生への質問をまとめた当たり障りのないものを二人で書いた。本心ではそこに患者さんの詩を載せたかったが、自分が心から凄いと思ったものを広く知られるのが嫌というダメな人特有の心理が働いて、出来なかった。

その文集に触れて以来、自分は患者さんの詩や短歌を真似た創作をするようになった。そして中学に上がって文芸創作クラブに入ってからは、それらの詩や短歌に思春期がブレンドされて、ますます尖ったものを書くようになった。

何かの折にクラブで作った文集を読んでしまったらしい父は、自分が初めて独り暮らしをする時、「ちゃんと掃除しなさい」とか「ちゃんとご飯を食べなさい」ではなく、「ちょっとでも(頭が)おかしくなったら、一人で悩まないで相談しなさい。そういう病気は全然恥ずかしいことじゃないからな」と真剣にアドバイスしてくれた。

大人になってそういう病気を身近に経験した今、あれは本当にありがたい言葉だったな、と思っている。

どうにかなりたい人に伝えたいいくつかのこと

「どうにもならない」というタイトルで始めたこのブログだが、自分はどうにもならない人間なりに、「どうにかなりたい」と思って生きてきた。

大学生になって一人暮らしを始めた途端、部屋がリアルにゴミ屋敷となり、破けた網戸から入り込んだ野良猫が本棚で子猫を生んだ時。

学校に行かなくても誰にも怒られないのをいいことに、講義をさぼって朝から晩までゲームをしてはその合間にレンタルビデオ屋で借りたホラー映画を観まくって過ごし、卒論の時期になってやっと久々に大学の研究室を訪ねたら教授から「君って卒業するの?」と驚かれた時。

運良くギャグ漫画でデビューできたもののアンケートの結果が最下位で雑誌を首になり、夜は再デビューを目指して新しいネームを描きながら、昼は工場のラインでコーヒーシュガーの向きと数を揃えるアルバイトをしていて、隣のフィリピン人のお姉さんに「フィリピンの葬式はすっごい派手よー」と唐突に話しかけられてコーヒーシュガーの向きを揃え損ねた時。

「このままではだめになる」、「どうにかしないといけない」と強く思った。

そして現在、自分はゴミ屋敷じゃない程度には片づいた家で暮らし、留年することなく大学を卒業して就職した上に結婚して子供まで作り、さらに漫画原作者として十年以上仕事を続けてこれている。

それでも、人様と比べると多くの部分がどうにもならないのだが、今もどうにかなりたいと思い続けているし、そう思って行動して、どうにかできたこともある。

この新しく作った「どうにかなりたい」というカテゴリーでは、自分と同じ「どうにもならない」人間だけど「どうにかなりたい」と思っている読者の方に、「面倒だけど、ちょっとどうにかなるために行動してみよう」という後押しができるような記事を書けたらと思っている。

多少自分語りがうざいカテゴリーになるかとは思いますが、なるべく楽しく読んでいただけるよう努力はしますので、どうかよろしくお付き合いください。

団結した仲良しクラスの中ですら落ちこぼれるために必要なたった一つのこと

自分が高校3年生の時のクラスは団結力があり、球技大会や文化祭でみんなで盛り上がるような素敵なクラスだった。いじめや仲間外れもなく、自分のような者でも明るい高校生活を送ることができた。お弁当を食べるグループにも入れてもらえて、学校帰りに友達とカラオケに行ったりと、まるで普通の高校生になれたようで嬉しかった。

文化祭が終わって数日経った頃、クラスの人気者の男子が「打ち上げしようぜ」と言い出して、クラス全員参加でみんなでボーリングをしに行くことになった。自分はボーリングをするのはその時が初めてだった。

人気者の男子が仕切ってくれて、クラスをいくつかのチームに分けて対抗戦をすることになった。ボーリングをしたことがないと正直に話すと、同じチームの男子が投げ方を教えてくれた。その通りに投げたつもりだったが、1投目も2投目もガーター(という言葉をこの時初めて知った)だった。

同じチームの女子達が明るく「ドンマイ!」と言ってくれて、「ごめんごめん」と苦笑いしながら席に戻る。しばらくしてまた投げる順番が回ってきて、今度こそ真っ直ぐに投げたつもりだったが、3投目と4投目もガーターだった。女子達の「ドンマイ」の声のトーンが少し落ちた気がした。

自分は結局、この時に20連続ガーターという奇跡のスコアを叩き出した。7投目あたりからは投げ終わったあと、どんな顔で振り返ってチームのみんなの方に戻ればいいのか分からなかった。9投目を投げる頃には、チームのみんなが自分が投げる時だけ無言になっていた。うちのチームはぶっちぎりの最下位だった。

ボーリングのあと、みんなで焼肉屋に行ったが、何を食べても味がしなかった。その後、親に教えてもらって近所のボーリング場で練習してたまにガーター以外を取ることもできるようになったが、あれ以来クラスメイトからボーリングに誘われることのないまま、卒業の日を迎えた。